尻取り日記「ら」ラスト

引退を決めた16歳、32年前の今日は心身共に寒く、
全てが終わった気がしていました。

1988年11月25日、朝10時。
3日間絶食絶食飲して、計量に着ました。
父親同伴で訪れたのには意味も訳もあります。
支えてもらわないと立っていることすら辛いという
ことと、自宅に帰りたいからです。

はっきりと、今も覚えています。
98戦試合して、それ以上の感覚を味わったことがない
からです。
それ以下と表記した方が適しているかも知れませんが、
それ以上の苦しみはありません。

何者かが上から下に押し下げている様な感覚、そして、
何者からが後ろから引っ張っているかのような感覚です。

1R終了時に肩で息していたと記憶しています。

リング上の孤独感。
反比例して、冷静に聴こえる失笑。
二度と試合したくないと思いました。

大検も失敗して、一浪して入学した定時制も1ヶ月で
退学に追い込まれ、それでこの様か。
情けない。
なんて、陳腐で哀れな人生なのだろう。

そう思えました。

その年は。

翌年もそれは変わらず、でも、年明けに千葉工商高校
(千葉敬愛学園)に再再受験し、入学します。
大分休んで、荷物を取りにジムに顔出したら入学式2日前に
貝沼慶太と試合が決まっていました。

やりたくないと断ったのですが、既に決まったものだから
と命じられました。

スーパーバンタム級の契約ウエイトですら、体重は全然
落ちてくれませんでした。
前日、1kgオーバーしていました。
ガムを噛みながら走って、食べないで飲まないで落としました。

その頃のことは、自伝に記しています。


でも、自分は不幸だと試合していた同じ日に壮絶な蹂躙を
受ける同世代の女子がいたことを知り、気持ちを正します。

苦しんでいたのは自分だけではなかったということも、
それ以上に苦しんでいた人がいたということも。
自分が小さく見えました。
その後も幾度も辛いことがあると、その時のことを
思い出して我慢しました。

生きていればお母さんになって、僕と同じような大きさの
子供がいたでしょう。
子育てに苦労したかも知れませんが、それ以上に伴う
喜びすら無惨に奪われて、そのことを毎年思い出します。

頑張れる僕は最後まで苦しまなくてはならないのです。
楽して生きようなんて虫がよ過ぎます。

3年前の今日、息子と出場しました。
試合後、新宿FACEを後にして、靖国通りを走ります。

続きはnoteで。


今朝、中学3年生の夏を思い出します。
当時を想いながらニュースを開くとマラドーナの訃報が
飛び込んできました。