尻取り日記「と」トーマス・ヒットマン・ハーンズ

  • HOME
  • ブログ
  • 尻取り日記「と」トーマス・ヒットマン・ハーンズ

こんな世の中です。
noteで続けている尻取り日記をここにも記します。
くだらない記述ではありますが、尻取りで思うことを
日日綴ってきました。



過去ばかり持て囃すことは嫌いです。
今を否定して過去ばかり褒めることが嫌いです。
反対に過去を否定して今を肯定するばかりの風潮も
同様です。
ボクシングには両方が当てはまるような気がします。
耳にしたことがある言葉、内側のそれも外側のそれも。

最近では井上尚弥の活躍で、昔の選手、業界を軽視する語彙を
ネットのコメントなどで目にします。
知ったかぶり甚だしくておかしくなります。
僕がよく口にする8割の便乗型の方でしょう。
ああ、凄いです。

でも、考えてみてください。
よく、昔の選手と比較しますが、でも、昔の選手だって
今いたら昔のままではないでしょう。
情報だって入って来るだろうし、目だって養うことが
出来ます。
当然、勘や知識も養えます。
反対に、今の優れた選手が過去に戻ったらその分、
落ちるでしょう。
なので、比較そのものがナンセンスなのです。

僕がキックボクシングを始めた35年前、彼の会長である
大橋秀幸氏がデビューします。
「150年に1人の天才」です。
そういうキャッチフレーズでした。

勝てば日本ボクシング史上最短になる7戦目でのタイトル奪取
となるタイトルマッチに敵地韓国で挑戦します。
しかし、期待空しく破れてしまいます。
当時の韓国は日本に対する敵対心が凄く、そしてレベルも
日本よりも高かったと思います。
レベルそのものというよりは執念が違いました。
サッカーもそうですが。

1990年2月、30年前に三度挑戦します。
世界チャンピオン不在になってからの日本人の世界戦21連敗の
プレッシャーは相当なものだったでしょう。
今の人には分からないでしょう。
「日本人が世界チャンピオンになる日は、また来るのだろうか」
そう思える程、萎んでいました。
ワールドカップに出ることも出来ない日本サッカーが尽く
韓国に勝てなくて、日本がW杯に出ることが生きている間に
来るのだろうかと思えたほどです。
全て、当時の僕の目線からです。

最後のレバーブローが決まった瞬間の鳥肌は今も覚えています。
「150年に1人というと、その前は江戸時代?」
その夜、顔を腫らしてニュースステーションに出演する大橋秀幸に
久米宏はそんな冗談を云っていました。
そこからしばらく、レバーブローをよく見かけるようになります。
皆、大橋秀幸に影響されたのです。
毎年行われるM-1の予選、見たことはありませんがそんな感じだと
思います。
前年の優勝したコンビの技法を真似たそれが、きっと多いのでしょう。
その技の影響力とでもいいましょうか、そのまま模倣する者もいれば、
微妙に変えてくる者もいます。

「誰かの真似をするのではなく、自分が真似されるように努力
しなさい」
デビュー前から父は教えてくれました。
色色と勉強しながら、でも、僕自身が不出来だから今も勉強中です。

井上尚弥は現在3階級制覇中で、そうくると、日本初はファイティング
原田氏の2階級制覇になります。
F原田氏に関しては当時、間のスーパーのつく階級がなかった為、
フライ級とバンタム級の2階級制覇時点で、3階級制覇している
ことになります。

世界最高はデ・ラ・ホーヤとパッキャオの6階級制覇が最高ですが
トーマス・ハーンズは5階級制覇しています。
こうなってくると、数ではありません。
ただ、記録だけを意識した何階級制覇は目にしますが、それは少し安っぽく
感じます。
前述の原田氏は3階級制覇を目論み挑戦しているのですが、勝っている
試合を敗けにされてるので、そして前述したように間の階級がなかった時代での
それなので、事実上5階級制覇に相当する実績といってよいでしょう。
フライ級からフェザー級、凄いです。
僕はフェザー級でデビューして、フライ級まで落として失敗していますが。

あと115年、時間は残っているというのに教え子は上回ってしまいました。
存在的にはそうかもしれませんが、でも、世界チャンピオン不在の
世界戦連敗を止めたのは大橋秀幸です。
あの興奮は凄いものがありました。
そして、階級も違うし、状況も違います。
井上尚弥は凄い選手だと思います。
でも、もっと凄いのは大橋秀幸氏です。

何故なら、選手としてそれだけ凄いことをしたというのに、育てた
選手までそこまで凄いなんてただただ吃驚です。
尻取りは「トーマス・ヒットマン・ハーンズ」ですが、話は大分
逸れました。
朗報です。
その代わりといっては何ですが、只今、「おおいた」と読まれた方に
30点差し上げます。

1980年代のボクシングが好きです。
ハーンズの話はまた、そのうちに。

「ず」に続きます。

87年、タイで試合前に対戦相手に一刀両断しました。
帰国した辺りから、リングアナウンサーに
紹介をされる際にハーンズは、コーナーで銃を構える仕草をするようになり、
その後、日本人の選手も彼の真似をするようになりました。
僕の場合、和風ということもあったでしょうし、新人の癖に
パフォーマンスをしたから生意気だということもあるでしょう。
罵声を浴び続けました。
でも、続けました。

分かってもらえないのなら分かってもらえるよう努力する。
簡単なことと思います。
30年以上前も今も変わりありません。