2023/05/30
下記、昨夜のnoteの記述の一部です。
noteも、もう少し力入れて増やしていこうと思っています。
興味のある方は覗いてみてください。
クレイジージャーニー
1月中頃だったでしょうか。
99戦目の試合前からの密着取材を日本テレビで放送して
いただきました。
2月、次戦のオファーが着ました。
どうしようか考えました。
名前が嫌だったのです。
本名であれば仕方ないのでしょうが、微妙に字を替えて
などのそれだったら嫌だったからです。
本名ならそれはそれでいいのです。
せっかくの100戦目を、対戦相手の名前で茶化されたくなど
なかったからです。
なので、嫌だなと思うことに変わりはありません。
1994年秋、当時取材を受けていた日本テレビの
方にお願いして「ガキの使いやあらへんで」の収録の
観覧をお願いして足を運びました。
初めて見る生のお2人の作る空気に、存在感に圧倒されて
面白いトークに、素直に笑えない自分がいました。
終えたあと、楽屋に通してもらい話をさせてもらいました。
試合で折れて前歯がないので、ちゃんと喋れない自分が恥ずかしかった
ことだけ覚えています。
少し時を経て、年明けの1月7日にNKホールでチャモアペットと
試合が決まりました。
その試合に松本さんが着るということを関係者から耳にしました。
惨敗でしたが一歩前に進んだ気がしました。
取材に着てくれるマスコミの数も、お客さんも増えて、それが
モチベーションでした。
前年の不足分を4分の1程度しか貰えなかったとしても。
翌3月のエビアップ戦も観戦に着てくれました。
その後も。
その年から更に貰えない金額が増えていきます。
僕は相変わらず図図しくお願いして観覧に足を運びます。
松本さんは、僕のお願いを快く受けてくれるのですが、鬱陶しかったと
思います。
その頃、既にもらえるはずのファイトマネーを大分踏み倒されて
いて、腐りかけていました。
僕は、練習場所も生活する金もないメインイベンターでした。
そんなことは口に出来ません。
でも、1流の空気を吸うと、迷っている自分も吸い上げてもらえる
気がするということは当時、ご本人に云ったことがあります。
自分自身が腐っていない気がして嬉しかったのです。
自分も頑張ろうと刺激をその度に受けていました。
分かりづらい例えでしょうが、理解出来ないのであればどうにか
理解してください。
1流の方は、空気が違うのです。
分かりやすく例えやすいのがボクシングです。
あるジムでよい選手が出てくると続けてよい選手が輩出されます。
そのよい選手がよい空気を作って、それを吸った選手が
続くのです。
でも、どこかで途切れると、そのジムから次が中中出ることはありません。
なので、そこに図図しく割り込みました。
気持ちだけでもしがみつきたかったのです。
しかし、現実は甘くありません。
戦績も振るわず、マスコミも遠ざかり、キックボクサーとして
落ちぶれていきます。
未納のファイトマネーは何度も踏み倒されて、でも、なかったことに
なります。
色んな方が離れていきました。
そういう意図ではない方もいるでしょう。
文字通り、でも離れていくのです。
誰が、とかはどうでもいいのです。
関係ないのかもしれませんが、松本さんとも連絡が取れなくなりました。
自分がだらしない選手だからいけないのです。
3年程の時をかけて、ようやく「ざまぁみろ!」出版に至ります。
読んでもらえたら嬉しいけれど、届くことはないだろう。
そう思ったのですが、でも気持ち込めて送ります。
そこから20数年の時を経ます。
その前に一度、36年程前に遡ります。
15・6歳の頃になります。
リングネームは各自の自由ではありますが、長いこと
ふざけた自己陶酔のリングネームをよく、目に耳にします。
学園祭の域を出ないそんなリングネーム、見ていて恥ずかしく
なります。
「リングネームつけようかな。」
十代半ばでデビューする頃、面白半分で父に云いました。
タイではリングネームだったので、なので、日本でもどうかと
考えたのは事実です。
「相手選手のことをちゃんと考えてつけろよ。」
父は云いました。
「敗けた選手が恥ずかしくなるような名前はつけるなよ。
試合前に相手選手が応援に来るその仲間に馬鹿にされないような
名前をちゃんと考えろよ。」
そして、父は続けました。
冗談半分で吐いた軽軽しい失言に恥ずかしくなったことを
今も覚えています。
学園祭の様なリングネーム、プロならばやめるべきだと思いますし、
考えてつけるべきと思います。
まず、逆の立場で考えるべきと思うのです。
前戦といい、またか。
選手生活終盤を軽軽しいものにされるのが不快でした。
本名なのかもしれませんが。
相手の名前どうこうなんてどうでもいい。
試合出来るだけありがたいと思え。
この歳まで続けて、いい結果も残せていない癖に。
自らを窘めて、承諾することにしました。
自分の目的だけ考えればいい。
場所や対戦相手のことをいうのは贅沢な立場だという
ことを弁えろ。
そんな具合に気持ちを切り替えました。
その頃、1件のメールが届きました。
クレイジージャーニーからの取材の依頼でした。